『 とある酒屋の情景 』
「手を上げろお!!」
血走った目で男は辺りを見回した。店内のテーブルの上には湯気の立つ料理、今にもグラスには紫やら金色やらの液体が注がれ宴が始まろうとするその時のことであった。
一瞬の硬直の後に、その場にいた皆は異口同音、こう言った。
「あなた、何をしに?」
男、強盗は持っているナイフにおびえない一同に一瞬ひるんだが、やはり強盗として入った以上このまま出てはいけないと持ち直す。
「かかかか、かっ、金を」
「かかかかかっかね、なんて物なら、ないですよ」
カウンターの女性がにこにこと、ナイフを持って自分に迫る強盗の言葉を遮った。
「ふざけるな、金だ!現金だ!貴重品だ、金目のものだ!!あるだけ全部出せ」
思わず興奮していた強盗は激昂する。
「オーケー。お金ね。うん、それもないです。持ってるなら私は今頃こんなことしてないですから」
「何をわけの分からないことを言ってやがる!?ここは店だろうがっ!」
首筋にナイフをひたり当てられて、その手が危なっかしく震えているのを見てなお女性は平然と笑っている。
「この酒屋はねえ、さるおばかな金持ちの道楽で飲み食いは全部ただなんです。すごいでしょう?
で、私はそんな素敵なところで借金のかたに働かされてる貧乏人なわけですよ。それで、ここにあるのは食材と酒だけですが、持ってきますか?」
「んなことがあるわけが」
「あるって言っているの、わからないのかしらお間抜けさん?」
「いてっ!?」
ぱしん、と強盗の尻を打つ者がいた。それも、鞭で。
強盗が驚きに振り向けば、見事な肉体を惜しげなく晒す赤のボンテージ・ファッションの女性がいる。
「人のお食事中に飛び込んできて妨害、はては相手に凶器なんて向けるものじゃないわ、よろしくって?」
「あんたはどうなんだよ、鞭なんざ振り回しやがって!!」
一瞬でも肉感的な女に見惚れたことを投げやってつっこまずには居れなかった男に向かって、小ばかにしたように、しかし上品に彼女は鼻で笑ってみせた。
「私はいいの、女王だから。それに鞭は人を傷つける凶器ではなくて悦楽のための素敵な道具なのよ。ご理解いただけないようならご教授して差し上げるけれど?」
きらりとその目が光るのを見た、店主の女は早々店の奥へと引っ込んだ。悲鳴も嬌声も彼女は苦手であったから。
おーっほっほ、と高らかに笑いながら自称女王が男をなぶり始めたのを尻目に店の常連のほうは既に日常を取り戻しつつあった。
「どうしよう、女王様が暴れだしちゃったからお姉さん帰ってこないのかな」
少年がジュースを片手に相席している中年男性に向かってぼやいた。繰り広げられる惨劇に目を背けるようにする少年と対照的に、男性は鼻の下を伸ばしてSMの喜劇として見入っているようだ。
「んん?」
生返事が少年に返ってくる。
「いいよ、知ってた、おじさんに意見を求めた僕が間違ってたんだ」
「ああ、踏まれたい、私も・・・」
「踏まれてくればいいよ。なんなら顔が変形するくらいまで」
少年は悲しげに、前菜をつつきだした。これ以降の食事が出てくる可能性は低い。なにせ料理人はきっと奥に引きこもって今夜は出てこないつもりなようだから。彼女が逃げ出す折、鍵がガチャリと閉まる音を耳ざとい少年は聞いていた。
TVのないこの店では、ラジオが場に似合わないほど清純な少女の歌った、牧歌的といえるくらい暢気な昭和の名曲を流している。それがやけに白々しい。
「おお、少年、その缶のその金属片をくれないか」
少年に語りかける別のテーブルの老人の声が強盗の悲鳴を縫って響いた。少年は振り返る。
「ああ、おじいさん。今度はこれ集めてるの?はい、こんなのでいいならどうぞ」
少年は缶の開けるところの部分をぱき、とはずして老人に手渡した。
「おお。素晴らしいな。この曲線、この煌き。これは世界で唯一つの形だ」
「よくあるものじゃない。ていうか全部の缶についてるよね?」
「いや唯一だ」
少年は首をかしげた。
「結局飽きて捨てるくせによく言うよ。あーあ、早くヴァンパイアさん来ないかなあ。まともな人に会いたい」
「わしの方がよっぽどまっとうじゃろうが。
大体あれのどこがまともなものか。吸血鬼などと自分のことを言うのだぞ?」
老人は憤慨するが少年は取り合わない。
「いや、そう呼んでるのは僕たちの勝手。ありのままの自分でいるだけで、ヴァンパイアさん自身はまともだよ。特に中身。ここにいるみんなと違って」
「なに!?俺がまっとうじゃないとな」
いきなり突拍子もない甲高い声が響いた。女王にうっとりしていた中年男性のものである。少年は顔をそちらに向けもせず無情に一言だけ言った。
「おじさんは変態でしょ」
「そうとも!」
少年の言葉を聞いて、途端に、にこやかになった中年男に胸を張られて少年はためいきを落とす。
「喜ぶあたりがねえ・・・もうどうしようもない」
「むっつりした男よりあけっぴろげの方がいやらしくないだろう」
「エロスは秘めてこそのものじゃない?」
「お前、本当に12か」
「僕が年齢詐称して何の得があるの」
「いろいろお得だろうな。年を誤魔化してはいかんぞ」
「そんなに僕年増に見える?やだやだ、若さが全てなのに」
「いや、そういうところがな、んん、いやまあいいか。それにしても素晴らしい、この切れ味!見ろ、缶の金属の切れ味の鋭さを」
「うわあ、食事中に血を見せないでよ。ぞっとする。マナー違反でしょう、そういうの」
とうとう語っていた一同の会話に、違う声が混じる。
「それよりまず先に注意するべきものがあると思うが・・・」
その低く滑らかな声の持ち主は彫りの深い、冴えた月の様に血色の悪い青年だった。
「ヴァンパイアさん!」
「ああ。少年、久しぶりだ。元気そうで何より」
「昨日も会ったけどね。調子はどう?」
「まあまあだ。よく啜ったから」
「それは良かった」
何を啜ったのか、とは賢明な少年は問わなかった。
「なにはさておき、どうしたんだ、あの二人は」
青年は顔を顰めた。
「女王様が不届き者にマナーを施してるんだよ。だからマナー違反じゃないと思って僕は何も注意してないんだけど」
情操教育によろしくなさそうな様子だから近寄りたくないしと少年は嘯いた。青年はさらさらした自身の髪の先をいじった。
「私には女王が男を殺してしまいそうに見えるが。すさまじい悲鳴がするようだし」
「そう?僕にはよがってるように聞こえるなあ。悲鳴と悦楽を叫ぶ声って近いよねえ」
「少年、いったい何があったらその歳でそんな風に」
「みんなこんなもんだよ、今時」
「そうか、今時とは恐ろしいな。私はもう随分歳だからそういう感覚は分からない。すまない、変なことを言った」
しみじみと言う青年を眺め、少年はどこかほっとした笑みを漏らす。
「うん、やっぱりヴァンパイアさんと話していると落ち着くや」
「そうか?」
「うん。・・・で、ヴァンパイアさんはあの二人をどうにかした方がいいと思うの?」
「そうだな、なにせ私はこの環境では落ち着いて呑めそうにない」
店内は女王様に哀れにも奴隷と認定された男が鞭打たれる乾いた音が響いていた。少年の言うところの悲鳴とも嬌声ともつかない声は高まる一方、である。
「でも、あの人強盗だよ。放っといたほうがいい天罰になるんじゃない?」
「何!?強盗だと!!」
「え、どうしてそんなびっくりしてるのさ」
そりゃあ、まあ、驚くもんだよねえと中年男がどうでもいい茶々を入れるのを少年は流した。
「あの強盗がなんかしそうには見えないけど」
「いや違うんだ、私は今盗んでもらって構わないものを持っていない。そのことが問題なんだ。いや・・・強盗だから無理に何かを私から盗る、それでいいのか」
青年の呟きに、少年は呆れかえった声を出した。
「何言ってるの?全然良くないじゃない」
青年は首を振った。
「いや、そうなればそれでいい。なにせこの店に入ってきた以上、強盗なら何か強引に盗まないとあの男、一生この店を出れないんだぞ」
「ええ?それはまた、どうして」
「そういう仕組みなんだ。この店に入るときの持った目的は達成されない限り店からは出られない。絶対に、だ。出ようとすると、ドアを開けて外に出たはずなのにまた店の中に入ってしまう。元は客に完璧な満足を提供するためといって奇術師でもあるオーナーが店をそんなふうにしたらしい」
「それは初めて聞いた。そうなんだ、なんかそれ嫌がらせと紙一重だよね、場合によっちゃ」
ふうん、とあっさり少年は頷いてその奇異さを受け入れた。それを見て、若者達にのけ者にされていた中年男と学者の老人はひそひそ囁きをかわした。
「あの坊主が、不思議にもなんとも思わずそんなことに納得するとは」
「わしらとの会話と比べてなんと素直なことよ」
それを聞きとがめて少年は口を開いた。
「僕、素直じゃん」
「・・・なあ、素直って意味知ってるか?」
「いつでも自分の感情のままってことでしょ?いつも僕はそうしてるよ。そもそも変態と変わり者の学者さんより、人種どころか種族が違うかもしれなくとも人間性が勝ったヴァンパイアさんに信頼を置くのは普通のことさ」
にっこりと彼は笑う。中年男と老人はぶうぶう文句を言ったがどこ吹く風である。少年はたくましい。
「そうだ、店主はどうした」
その間、良い解決法をずっと考えていた様子の青年は思いついたように言ったが、
「ひっこんじゃったけど」
という少年の言葉に肩を落とした。
「確かにこれは困ったね、別にあの男には同情しないけど、つまり何かを強盗しないと彼は出て行ってくれないわけだ。はた迷惑にも」
少年の言葉はあまりに率直だったが、皆もおおむね同意した。彼らは闖入者をあまり好まないのだ。
「店主、あの女の職務怠慢だ・・・」
思わずもらした青年の言葉に、
「私がなんですって、もやし男さん」
と答える声があった。
「店主!?」
「はい、なんでしょう、根暗男さん」
すい、といつものように伸ばした背はまっすぐに、背の高い青年とほぼ同じ高さの女性は常に浮かべている笑顔で答えた。青年は顔を顰めたが彼女の罵りは無視して訊ねた。
「店主。何をしていたんだ、この非常時に」
「なにをって、お仕事を」
ぷらぷら彼女は左手に持つ包丁を振ってみせた。
「生憎見つかりませんでしたがまず、耳栓を。そして何より金目の物を探していたんですよ、『送り出すもの』というこの店の主の勤めとして、強盗さんに必要なそれを。で、誰が職務怠慢をしているって?」
きらりと包丁の刃は煌いた。彼女は満足げにそれを眺める。
「…それは金目の意味が違うんじゃ」
「どこがです?金属であることは勿論、職人の作った一点もの。正直このお店で一番高価なものなんです。十分ですよ。なんなら切れ味をあなたで試してみます?」
にこにこにこ。
彼女はやはり笑顔である。
「いや、いい・・・それであの男が納得するかは知らんぞ、全く」
「大丈夫、彼はいまや女王様の奴隷ではありませんか、すなわち言いなりです。この包丁を渡すなんてそもそももったいないくらいなんですから、これで納得しないなら刺します」
「いや刺さなくても」
「私は刺されかけたんだから正当防衛です。やられたらやり返す。そして倍返しは正義です」
「いややめといたほうが」
「なぜ」
「なぜもなにも」
頭を抱える青年をよそに、わざとらしく微笑んだ店主は首を傾げて見せた。
「店主さん、あんな相手の為に店主さんが犯罪者になることないでしょ」
少年がきっぱりと言う。
「ああ、なるほど一理あります」
ぽむ、と店主は手を打った。
「少年は優しいですね。ヴァンパイアさんよりはるかに説得力がありますよ」
「そう?」
店主と同じような笑い方で少年はにっこりと笑う。
「まあそうと決まれば店主殿、さっさと渡してきてはいかがかな?」
「うん、行っておいで嬢ちゃん」
老いた学者と中年男性は揃って手を振って見せた。彼らは関与する気がないらしい。
「相変わらず冷たいですね。まあ、了解しました」
店主はすたすたと目を覆うような状態になっている強盗男に近づいていった。彼はいつの間にやら持っていた凶器を奪われ、鞭で裂かれ、襤褸切れのようになったほうほうの態で女王様にひざまずいて靴を舐めている。嘆かわしい、と呟きつつしゃがみこんで包丁を強盗男に突きつけ、店主は言った。
「手を上げてください」
「脅しかよ…今の俺に何故その必要があるってんだ」
男は手錠で後ろ手に拘束されている。しかし店主は鼻で笑った。
「私の味わった恐怖への意趣返しです」
「もう十分、」
「女王様のなさることは女王様のなさること。私はあなたの今の姿を見ても鬱憤はちっとも晴れませんから。むしろ不快です」
「そこまで!?」
「女王様、とりあえず踏みつけるのをやめて手錠をといてやってください」
「あら?もうお終いの時間かしら」
「ええそうです」
「残念ねえ。では」
手馴れた仕草で女王はかちりと手錠をといた。
「ではまたね、私の下僕。この子の言うこと聞かなきゃお仕置きだから覚悟して頂戴」
「は、はい」
顎に女王の手を置かれ、その官能的な笑みを寄越された男は思わず頷いている。
ひらひら手を振って、彼女は自身の酒席へと帰っていった。
「それでですね、牙をなくした強盗さん」
こほん、と一つ咳払いすると店主は強盗に話しかけた。
「なんだよ」
対する強盗は随分やつれているように見えた。まだ30分もたっていないこの間、彼が味わったものを感じさせるやつれ具合であった。同情の欠片も見せず、店主は包丁を差し出した。
「この包丁を差し上げます」
「な?どういうつもりだ」
びくり、と身を引く男に店主はむしろ寄って行った。
「ともかくあげるって言ってるんです、その代わりさっさと出てって下さい。ほら、私はあなたを助け、さらにはあなたに必要なものを差し出した。さあ、これを私から無理に奪ってください、さあさあさあ!!」
「うわ、切っ先向けながら何言ってやがるんだお前!?んな危ないもん無理やり取れるか!」
ち、っと店主は舌打ちした。無論彼女が常に浮かべている笑顔はそのままである。それがむしろ奇妙で恐ろしいものとして強盗の目には映った。
「ふ、普通に渡せばいいじゃないか、そしたら俺だって」
「なんて情けないことを言ってるんですか、あなた強盗でしょう?無理に盗んでこそなんぼのものです」
「もう今の俺は強盗でもなんでもないだろ、未遂だ、もう何もいらないから帰してくれ」
「とんだ根性なしですね。まあ、私としてはこの包丁気に入っていたので手放さなくて済むならそれに越したことはありませんが」
はあ、と深い溜息をつくと彼女は立ち上がった。そして、見るものを引きこむような微笑を浮かべた。
「この店に入りながら、何一つ盗めない強盗もどきさん。あなた、ここで骨となって朽ち落ちるしかない。それでいいんですね、いえ、それしかないみたいですね」
興味が失せた、とばかりに彼女はキッチンもかねたカウンターに向かって歩き出すと、強盗はきょとんとした。
「どういう、ことだ・・・?」
ことの成り行きについていけず、けれど強盗男は考えた。
こんな所はさっさと出て行くに限る。あのわけの分からない女の言ったことなんて、ふざけた狂言に過ぎないだろう。
そう決めつけて彼は出口に向かう。そして、扉を開けた。来る時は夕方だったのに外は真っ暗で、これなら今の惨めな格好も見られなくて済むと男は安穏と一歩を踏み出した。
しかし。
「ああ、残念だったな」
顔色の酷く悪い青年が、哀れみを顔に浮かべて、再び店に踏み込んだ男を迎えた。
「なんだ、これは!?」
何かの間違いだろうと再び出ようとして、店に入ると言うことを再三繰り返すと強盗は恐慌に陥った。その男の傍に青年がやってくると言った。
「強盗。ここはそういう風に出来ている。無理になにかを盗まねば、お前はここから出られないぞ」
何を盗むか、と彼は問われ、立ち尽くした。ドアの向こうに外は見えているのに、彼は出られないというのだから。
「あー、やっと出て行った。これで本当にいつも通り、だね」
少年が微笑んで青年に酒を注ぐ。女王は、今度は自他認める変態の中年男性を言葉で以って苛んでいる。店主は料理を次々に作っては酒と一緒に運んで回っている。
そういつも通り。
「どこがいつも通りじゃ!!」
やけ酒にはまっている一人を除いては。老いた学者のいつも傍にある箱は今はない。
「いいじゃない、ガラクタもなくなってすっきりしたでしょ?」
にべも泣く少年は言ってみせながら、料理に舌鼓を打った。
「あれはわしの宝だ・・・宝だったんだ」
がっくりとして、老人は箱の置いてあった場所を未練たっぷりに眺めた。
かの強盗が、嫌がる彼から無理やりにそれを奪って行ってしまったのである。他の物は奪われることを拒んで、時には全員で協力して盗まれることを阻止したのだが、老人の『コレクション』もといガラクタの集まる箱だけは別だった。なにせこの老人、集める時は熱狂的に集めるのだが、ある日全てなんでもないように捨ててしまうということをもう幾度も繰り返しているのを皆が知っていた。
「まあ、元気出して。また次の何かを探しなよ」
「・・・すまない」
少年と青年の言葉を受けても、老人は悲しげに項垂れていた。
そこへ動き回っていた店主がすたすたやってくると、項垂れる老人の前にことりとウィスキーの瓶を置いた。片手には、つまみがある。
「さ、現在当店一押しのウィスキーです。秘蔵だったんですけど今日のお詫びです」
「むう」
酒は大好きな老人の気分は少し浮上したようだった。それを見てとった後に、店主は笑みを浮かべて言った。
「ところでこのウィスキーの瓶なんですけど、月ごとにデザインが違うんですよ。無駄なことをすると思いますけど、でもやっぱり面白いですよねえ」
「・・・ほう?」
それを聞いた老人の目がきらりと光ると瓶を熱心に見つめだした。
…さて、このように強盗は去り、長閑なラジオがいつものようにしっくりとくるようになった酒屋の夜はのんびり更けていったのである。
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