フィーが嫌いな言葉がある。
さようなら、だ。
別れてもまた会えると信じたい、会えないのだとしてもさようならとは言いたくないと彼女はよく言っていた。
母はそれを知っていて、死に際に「そろそろさようならだね」とそう言った。フィーが涙を流して立ち尽くし、首を振り続けるのに構わずに母は笑った。母が泣いたのを、僕は一度しか見たことがない。いつだって記憶にあるのは笑顔ばかりだ。
「そう泣くな、別れられなくなるじゃない。手向けの言葉をくれないの?フィー」
「別れなければいいだろう」
「あんたの人生はまだ続くんだよ…ならば一つ一つ、終わらせないと、乗り越えられないものってあるだろう、今がその時」
母が滅多にしない真顔になった。フィーは気おされたように少し慄く。
「さよ、なら」
無理やり絞り出すような彼女の声。
笑顔に戻ってそれに一つ頷くと、傍にいるシライの頭をそっとなで、僕に向かっておどけたようにウィンクして手を振ると、母は息を引き取った。
穏やかな顔をしていた、と思う。
瞬間、開いていた窓から吹いたのはどこか土の香りのする春風。冬はもう、終わったのだ。
「春、だ。春だよ、師匠。…師匠…」
それは温かい風だったのに、心に一つ空いた穴を通り抜けるときどこか冷たい音を立てた。
ねえ母さん。あなたはあんなに春が好きだった。
王が戴冠したのは、その一週間後のこと。
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