『treat me』
「シライ、お菓子をくれないと悪戯するぞ!」
「はいはい、フィー、もうちょっと待っててね、もうすぐパンプキンパイが焼きあがるから」
 にこにこするシライにフィーは膨れ面をした。
「まだ焼きあがっていなかったか・・・」
 フィーは甘いものに目がない。そんな彼女にとって朝から今日は一日中甘いものを楽しめる日だ。彼女はこの日のために、一週間ほど常は欠かさないお菓子を抜いてきた。昨日の晩などは夕食すら少なめにしたほどである。
 古代人がこの日は悪霊や死者の霊に悩まされたので、それを追い払うために祭りをしだしたので本来は収穫物を貰う日であったことや、聖人を祝ったりする日であるなどフィーにはどうでも良かった。子どもに紛れつつ、彼らと共に競って家々を回りかねないそんなフィーを抑えるために、エルファンド工房の料理担当・シライは大忙しである。フィーのためにこの日一日、3食お菓子を焼き続けているこの工房はどこかおかしいがもう慣れちゃったな、とシライは思う。シライ自身も菓子作りが好きだから楽しくはあった。
 次第に隣近所からも工房から香る甘い匂いにつられて、たくさん人がやってくるようになってしまい、せっかくだから工房の宣伝もしてしまおうと人々に簡単な細工と一緒にお菓子を配るのが今や恒例行事である。
「よその家に行ってみようかな。パン屋のおばちゃんとかケーキ屋のジニーは私常連だしなんかくれると思うんだけど」
 シライのお菓子を楽しみに早起きしたらしいフィーが、待ちきれないのかそんなことを言うので、シライは苦笑した。シライにとってフィーのこんなところが兄と違って、フィー『お姉ちゃん』とつける気をなくさせるところだと彼女はきっと分かっていない。
「だから大人がただでお菓子を強請っちゃ駄目だよ、フィー・・・本当にあと10分くらいだからさ。ロイ兄ちゃんとこにでも行って気を紛らわせてきてよ」
「あそこにお菓子はない」
「いいからほら行った行った。僕に言ったのと同じことを言っておいで、何か貰えるかもよ?」
 どこか半信半疑の様子で、それでもとぼとぼフィーは2階へ行った。それを見送りシライは呟く。
「お菓子はなくとも甘いんじゃないかな・・・」
 フィーはロイの部屋の前までやってきて足を止めた。いつもハーブの匂いが漂っているのに、今日は心なしか甘い匂いが混じっている気がして。甘いものへの欲求がそんな錯覚を覚えさせるのかとフィーは訝った。朝早いためにロイはまだ寝ているのか、物音がしない。・・・特別な日だし、もうすぐ菓子も焼きあがることだし、起こしてしまおうかとフィーは思った。いつも眠いところをロイに起こされているのでたまには意趣返ししてやろうという意地悪な心に彼女は従って扉に手を伸ばして大きくノックをする。
「ロイ、起きろ。菓子の日だぞ、何か寄越さないと悪戯してやる!」
 飛び込んだ先には朝の眩しい光を浴びて、開いた窓から清々しく吹く少し冷たい風に銀の髪を揺らしたロイの姿があった。フィーの姿を認めた彼は、のんびり腰掛けていた椅子から体を起こして、水色の瞳を少し細めて笑った。
「起きてるよ、フィー。おはよう。楽しそうだね?」
「む。起きていたか、おはよう、ロイ」
 フィーは少々悔しそうな顔をする。
「起こしに来てくれたの?嬉しいけど、フィーが僕より早く目を覚ますなんてありえないかな。いつも僕が起きた随分後にフィーを起こしに行ってるからね」
「私より遅く寝るくせに・・・どういう体をしているんだ」
「フィーが眠りすぎなんだよ。それで、フィーはお菓子を貰いに来たってわけ?」
「そうそう。シライの菓子がまだ焼きあがらないんだ、ロイが何かくれるかも、って言うから・・・それになんか甘い匂いがするし」
「ああ。これかな」
 ロイが取り出したものは、彼が庭で育てている果実を使ってシライが作った果実酒だった。
「なんだ、朝から酒か。不健康だぞ、ロイ」
「え?これはジュースだよ、そうだな、お菓子はないけどこれはかなり甘く作ってあるから、ここに入ってる果物は砂糖漬けみたいに甘いと思うけど」
「・・・」
 途端に顔色を変えたフィーに、ロイは何か思いついたように笑った。
「どうしようかな?」
「選べ、悪戯(による死)か、それを私に寄越すか」
 ぎらん、とフィーの目が光った。が、それを見たロイはまるで子どものようにそっぽを向いた。
「じゃあ、あげない」
「な」
 ロイらしくない反応にフィーは少々唖然とする。
 果実の収められたビンを後ろ手にして置いてしまうと、ロイはもう片方の手で唐突にフィーの顎を掴んだ。そうして近づいてきた美麗な白い肌はよく見るとほんのり紅潮しており、目が潤んでいるのが分かる。フィーは嫌な予感がした。
 ・・・こいつまさか。
 互いの鼻の先と先が触れ合うくらいの近さまで顔を近づけられて、ロイの銀の繊細な睫に縁取られた大きな水色の瞳がぼやけて見える状態になってフィーははっとロイを突き飛ばそうとしてその手を掴まれてしまう。常にない強い力に、体がびくりと跳ねた。
「どんな悪戯をしてくれるの、フィー」
 ロイの口から甘いアルコールの香りがして、フィーは咽そうになる。なぜかフィーまでロイのそれが移ったように頬を赤らめる。 アルコールの所為だと決め込んで、彼女は無理やり顔を逸らした。
「ロイ、お前酔って」
「酔ってない。ねえ、答えて」
 耳に直接囁くように酒の所為か低く掠れた甘い声が響いて、フィーはくすぐったさに身を捩る。身を引くうちに壁際まで追いやられて逃げ場がない。・・・なんでこんな目に。ロイめ、酒に弱いというのをまた忘れたな。
「・・・二度と戻ってこられないような落とし穴に落して埋めてやる。そこで禁酒を来世に誓いながら朽ち果てて腐ってしまえ」
「・・・それ、悪戯の度を越して殺人予告じゃない。フィーってば、怒ったの?」
 そっと手が離されて、ロイの体が遠のく気配がしてフィーはようやく安堵した。なぜか心臓がどくどく鳴っているのに落ち着かなくて、フィーは顔を顰めた。苛立たしさに一発蹴りを入れてやろうかと彼女は顔を上げた。
「ロイの馬鹿・・・って、ロイ!?」
 何年ぶりに見ただろう。ロイは、泣いていた。長い睫を伝って、ぽろぽろ綺麗な雫が零れ落ちる。
「殺したいほど僕が嫌い?」
 泣き方が美しいというのは美人は得だな、と意識が遠いところで言った。泣きたいのはこっちだ・・・、とフィーは溜息をついた。
「ガキか!!そんなことで泣くな、なんだっていうんだ。もう、しっかりしろよ。私がお前を嫌いということがあるはずないだろう」
 そう言うと、ぴたりとロイは泣き止んで、形の良い眉を歪めて窺うようにフィーを見た。こんなに弱弱しい顔をする彼を見るのは本当に久しぶりで、フィーはもうどうしていいのか半ばパニックになった。目の端に赤い果実酒が並々注がれた杯が映り、ふとロイが自分で酒をそんなに飲もうとするだろうかとフィーはしばし考え込んだ。が、そんな思考を散らすようにロイが彼女に尋ねる。
「本当に?じゃあ、好き?」
「・・・ああ」
 ふわり、と笑んだ彼は、彼女にがばりと抱きついた。それは、常と異なるどこか熱を孕んだ抱擁。
「僕も大好きだよ、フィー」
「!!・・・放せ、ってばああもう」
 あまりのことに一瞬散っていた思考が戻ると、ロイに酒を飲ませた犯人が明らかになった。そう、彼は酔っていないといった、自覚がないのだ。そこまでロイに信じられている人物といえば。
「シライの大馬鹿野郎ーー!!」
 近所中に響き渡るフィーの大声のために、その日は朝早く起こされた人が多かった、らしい。

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