1.少女と道化師

 春が来る。春はサーカスの季節だ。真っ白なワンピースを着た少女がひとり、蛇行した道を抜けて、今年もやってきたというサーカスを見たいがために石畳の道を、ひたすらにつらつらと歩いていった。少女がふと立ち止まる。見上げると快晴であるが、春らしくどこか霞がかった幻想的な雰囲気が空に浮かんでいた。  この季節になると、冬の重苦しい衣装を人々は脱ぎ捨て、軽やかな明るい布を纏うようになる。枯れそぼった木々も、新緑の新たな装いに身を包む。

 道を抜け切った城下町の外側は、華やかな緑に溢れていた。彼女の住む町は、王都である。城には御伽噺のような世界が広がっている・・・らしい。少女は目にしたことがない。きらびやかなドレスも燕尾服も、それを身に纏った貴族や王族が歩く毛足が長い豪奢な絨毯が覆う大理石の廊下も、お話の中の世界だ。ドレスってどんなだろう。私が身につけているこの服とは違うものなんだろうか。  そんな世界と対照的に暮らす人々。だだっ広い王都の片隅、裏側には、お金が集まる都ならではの、おこぼれにあずかって生きる無法者たちが集っていた。王都の暗部。彼女の住処は、どちらかというとそちらよりだ。けれど季節はどこにでも等しく訪れる。

「すっかり春だ」

 彼女はうんと伸びをした。風が強い。

 ほこりが舞い上がり、思わず目を瞑る。春は好きだが、春風は好きになれないな。そう思いながら風の止んだ様子に瞼を開くと、向こう側に目当てのテントを見つけ、少女は駆け出した。


 そうして、いよいよテントそばまで来た。テントの裏側からテントの入り口にそっと近づく。小柄な彼女が人ごみに紛れるのは容易い。この人だかりだ、一人くらいチケットを持たない子どもが入り込むのは難しくないはずだ。そのとき彼女の耳は、近くに散在する小柄なテントから怒鳴り声がするのを聞きつけた。思わずそちらに向けて進路を変える。野次馬根性が旺盛なのだ。会話はこんな調子だった。

「おい、道化。なにしてんだよ」
「み、水を貰いにきたのです。」
「水だぁ?化け物は血ぃ通ってないんだから、水なんて必要ないはずだろう?」

 問題のテントの中を覗き込むと、ニヤニヤ、と体格良くでっぷり太った火吹き男が、対照的にほっそりやせた道化師の化粧をした青年にささやいた。青年は先ほど貰いにいったらしい、まだ口をつけていない水飲み用の皮袋をびくびくしながら抱え込んでいる。

「俺にくれよ、ちょうどのどが渇いてるんだ。」
 声を和らげながらも下卑た笑みを浮かべる男に、道化師は怯えているようだった。しかし、そろそろと袋を差し出すと、男はその手を無情にはたき、それを踏みつけにした。
「馬鹿じゃねえの?冗談に決まってる。お前が口つけた汚らわしいもんから水を飲むわけねえだろう」
 どんな病気を伝染つされることやら?
 がっはっは、そりゃ違いねえ、とそこらにいた者たちは爆笑した。道化師は、ぐっ、とうつむき踏みつけられた皮袋を見つめる。それは破けてしまい、男の靴のもとで小さな水溜りができていた。


「おっと、すまねえなあ、水が台無しだ。ああ、川にいきゃ、好きなだけ水が飲めるだろうよ、ちょうど春だ、泥の混じったおいしい水がな。」
 ちっともすまないと感じている顔ではない。
「それが厭なら町に行って買えばいいさ、もっともその金があるんならなあ!さあて、そろそろ祭りが始まっちまう。ちょうどいい退屈しのぎになってくれてありがとうよ。」

 行こうぜ、と声をかけると、相変わらず悔しそうにうつむき、唇をかみ締めて何かをこらえる顔をした青年を囃し立て置き去りにして周りの者は去っていった。



 誰もいなくなってしばらくたっても青年が動き出す様子は見られない。10秒、30秒、1分、・・・。5分を数えた頃だろうか、サーカスの始まりの合図のライオンの遠吠えと音楽が鳴り響いた。それを聞いて少女は今まで一部始終を見ていた物陰を抜け出し、青年に駆け寄った。

「あの。」
 とりあえず声をかけてみる。青年はうつむいたままだ。・・・気まずい。もう一度呼びかけてみようかと彼女が意を決してなお彼に近づくと、青年はビクッ、と後ずさった。



「い、一体何のようですか。ここは関係者以外立ち入り禁止です。」
「サーカス始まっちゃったみたいだけど。」
「・・・。・・・え?ええ!!まずい、行かなきゃ」
 彼は彼女のほうを見ようともせず、ばたばたとテントを出て行こうとした。

「待って!」
 彼女は彼に声をかける。彼は不思議そうな顔をして振り返った。きょとんと首をかしげている。
「北の森の中の小道を少し行ったところに、年中透き通った水の沸く井戸があるの。誰でも使っていいし、あそこには魔物はいないから、行ってみるといいよ」

 彼はその目を真ん丸くしてこちらを見て、ふわりと笑うとありがとう、といって去っていった。

 少女は、先ほどの青年のように、立ち尽くしていた。逆光と、何よりその顔に施された色濃い化粧で、彼の本来の顔立ちなどは良く分からなかった。けれど。

「誰かに笑いかけてもらったのなんて、久しぶりだ」

 その顔は、「わらった」。優しそうな笑顔を思い出し、彼女はにっこりと笑うと、彼のサーカスに間に合うように駆けていった。