2.竜殺し

大喧騒。
サーカスのテントに潜り込むと、そこは異様な熱気にくるまれていた。
前座がどうやら終わったところのようで、まだ本格的に始まっていないことを知り、少女は安堵した。これなら、あのピエロも間に合ったに違いない。
周りを見渡すと、子どもたちは目を輝かせて、これから始まる猛獣使いの話やブランコの話、マジックや奇怪な芸の数々に思いをはせ、大人たちに興奮を鎮めるよう諭されている。
そんな大人たちもわくわくしているようだ。
少女も場の雰囲気が乗り移ってきたかのように、落ち着かない様子でもじもじとしていた。

ふとざわめきが前方で起こり、前を向く。
少女の座るはるか下方の壇上にピンクと黄色のどぎついカラーを纏った、マイクを持った男が現れた。シルクハットをおどけた仕草ではずし、彼は息を思いっきり吸い込むと、きいんとその声を響かせ始めた。
「レディースエェエエンドジェントルマーン、そしてかわいい子どもたち!!前座は楽しんでいただけたでしょうかぁ??うぅん、大きな拍手をありがとう。しかし、国一といわれる我らジョー・フィッツ・サーカス団、前座だけが全てじゃありませんよう?今からあなたたちを、この世で最も奇怪で幻想的なミラクルワールドへと招待してさしあげまぁす。用意はいいでしょうか!?うん、いい拍手、どうもありがとう。それではお待たせしました!レッツ・ショータァイム!!!」

割れんばかりの歓声に負けじと、響き渡ったのは猛獣の雄叫びだった。どしん、どしん、と会場が揺れ動き、ギャラリーに動揺が広がり、ざっとざわめきが起こる。
やがて舞台奥がゆっくり観音開きに開き、そこから。
「ドラ・・・ゴン?」

大観衆を入れる、高い高いテントの大きさと同じほどの大きさの、巨大なグリーンの体が視界いっぱいを埋め尽くした。現在はたたまれている黒い、巨大な翼。首に鎖を巻き、足には囚人がするよりも20倍は大きい鉛だまをつけ、口枷の為された隙間からは赤い舌と真っ白に光る牙が覗く。その目がぎょろりと血走り、観衆を睨み据えたとたん、みなシン、と静かになった。な・・・んて威圧感だろう。こんなに遠くにいるのに、圧倒され、怖気が走った。溢れるばかりに空気に迸るのは、殺気と憎悪だ。子供たちの泣き声や、婦人の叫び声がするのがやけに遠くに聞こえた。けれど誰も動けない。動こうものなら獲物として目され、嬲り殺しにするつもりじゃないかと思うほどに、ドラゴンの人に対する滾る怒りを感じていたためだ。少女も例外ではない。
そんな人々の動揺を静めるべく、司会者はパン、パンと手をたたいて注目を集めた。


「ごほん。ご静粛に。皆さん、ご心配召されますな。優秀な司会者であると同時に皆さんを守る誇り高きガーディアン、この結果師マルクスが皆さんをお守りしますから。今までの興行でお客様から一人としてけが人が出ていないのも、私の強力無比な結界によるものなのですよ。では、ごろうじろ」


結界師を名乗る司会者が手を広げると、客席の最前列の真下あたりから、まるでオーロラのような揺らめきが立ち上がったかと思うと最上段最後尾の少女の席の頭上まで、光のカーテンがさあっ、とかかった。ドラゴンに圧倒されて縮みあがっていた客席が華やぎを取り戻す。それは、実に美しい結界だったから。


「美しいばかりでない、この結界の強さと来たら、」
おもむろに司会者は花火に火をつけ、客席に放り投げた。響き渡る爆音に思わず体を抱きしめ、少女は首をすくめたが、上がった歓声に恐る恐る目を開けると、花火の火の粉や金属のかけらの一切は結界に阻まれ、それが当たるたび透明な壁は美しいきらめきを見せていた。少女も思わず息を呑む。


驚く観衆を満足げに見回すと、司会者は語りだした。


「この通りでございます。仮にドラゴンが牙をむこうと、私がお守りしますから。さてさてこのドラゴンは先日捉えられた、町を10個も潰したという、あの火のドラゴン族のうちの一匹です。これでもまだ子供というのだから、大人はいかばかりか!その成竜にすら勇敢にも立ち向かい打ち倒すは、竜騎士にございます。彼らのその雄姿は吟遊詩人に紡がれ、人々の一身の称賛を受けるものの、実際に見ることはなかなか叶うものではない。今日は、われらがサーカス団の護衛、竜騎士の称号も持つ男、ルーイによる、世にもまれな竜狩りを皆さんにご覧に入れて差し上げます!!では、ルーイの登場です」


ぱっと会場が暗くなり、少女のすぐ横の出口にまばゆいスポットライトが当てられた。そこには、光を反射する騎士の白い礼装に身を包み、大剣を背負った一人のすらりとした偉丈夫がいた。


彼は衆目を意に介す様子もなく、すっと一礼すると、すたすたと今なお唸り声を上げるドラゴンに向かって階段を下りていく。スポットライトも彼を追う。「かっこいいわ」「いかにも騎士さま!って感じ。もっとごつい人かと思ったけれど」女たちのざわめき。キザ野郎め、と女たちのうっとりした顔を忌々しげに見る男たち。けれどその目に、強いものを賛美する少年のような憧憬も見られる。何が始まるのやらと、期待に目を光らせる子供たち。
しかし同じ年頃の少女は、壇上に上がった男と、ドラゴンの大きさの対比にびっくりしていてそれどころではない。あれで成竜じゃなくって子どもだなんて信じられない。


何かを男が呟くと、ドラゴンの顔がきっ、とその男のほうに向けられた。目が鈍く光を帯びた。
少女はその瞳にぞっとした。彼女がよく見知った、憎しみの目にとても似ていたから。あれは。
「仇を見る目」
だから次の瞬間、ドラゴンが怒涛の勢いで男に飛び掛っていくのも、彼女には納得のいく結果だった。


「グボオオオ!!!」
急進したドラゴンの口からごうっと、紅蓮の炎が口から吐き出され、それを紙一重で避けた男の行き先には素早く子ども一人分の長さはありそうな大きな爪が伸びる。これは逃れられまいと、思わず目を瞑りそうになって、けれど少女は目を大きく見開くこととなった。


ざしゅ


鞘ばしった剣は見たことの無い片刃。その一線で、男に襲い掛かった硬そうなドラゴンの腕はぼとりと落ちた。滲み飛ぶ鮮血の色は人と同じ赤で。


「うわあああああああ!」
「すごい…」


観衆は息を呑んだ。体長がわずかにドラゴンの10分の1位の、ちっぽけな人間が、その大きな生き物と対等に渡り合っている。片腕を落とされた怒りからか、勢いを増して何度も吐き出される炎を器用に掻い潜り、何度もその巨体に切りかかる。
怖がりである少女は、どうやら舞台にいる騎士が強く、惨殺されそうに無いことを知って、次第にまっすぐ戦いを見られるようになった。
そうして人よりかなり目のいい少女だから遠くからでも見えたもの。男は、怒る竜を相手にして、笑っていた。愉しそうに。
あの人、本当は余裕なんだ、と少女は気付いてぞっとした。ギャラリーはぎりぎりの戦いと思って手に汗を握っている。彼はそのためにわざと拮抗した戦いを演出している。
それが分かると少女は怖くなった。
これはショー。殺戮ショー。
竜殺しという至上のショー。人は、やはり残酷なのだ。
思わず口を押さえ、青ざめる彼女に気付くものなんていなくて、観衆は熱狂して叫ぶ。


「いけっ、いまだ、心臓を突き刺せ」
「目を抉れ」


もっと血を。コロセ、コロセ…


彼女は目を瞑って、耳を塞いだ。
心臓がバクバクと鳴る。人がみんな凶暴に見えて、ひたすら恐ろしかった。


大丈夫、これは「私に」向けられた言葉じゃない。
大丈夫、大丈夫だ。ここに私が何者か知る人はいない。誰も私を見てはいない。ほら、みんなが見ているのは目の前のスペクタクル。落ち着け、パニックを起こすな…
何度も言い聞かせる。
そうしてしばらく経ってから、漸く落ち着いてきて、彼女は目をそっと開いた。


そうして、ドラゴンがどう、と倒れる、その瞬間を見ることとなった。
振動が伝わって、ずしんと会場が揺れる。
騎士が血塗れた剣をかざす。
わっと上がる歓声や口笛。それは耳を破かんばかりの大きさで。誰ももう息絶えたドラゴンを見てはいない。その目は一心に偉業をなした兵(つわもの)に注がれていた。


人に害為す異物は駆逐され、それをなした者は英雄と崇められる。負けたものに弁解の余地は無く、多数を占める生き物こそが正義となり、世界は素知らぬ顔で敗者をこき下ろす。生者は常に死者を凌駕する。死んだら即それはただの過去。
年に似合わぬ底知れぬ暗い顔をして、そんなことを考える小さな少女は、英雄でなく、その後ろでさも舞台道具の一つであるようにこっそり片付けられていくドラゴンを、じっと見つめていた。