3.道化師と歌姫
悪夢の続きは明るかった。それは、めくるめく夢のようだった。
原色が主な彩に溢れ、次々と入れ替わる舞台。
空中ブランコ、不老不死の人魚のショー、火をくぐる猛獣達、異常に柔らかい体をした人の奇妙な芸、舞姫の踊り。少女は何度も待って、止まって、もう一度、と叫んだけれど、劇は賑やかに時を駆け抜けて、少女の小さな手をするりすり抜けてしまった。
呆気にとられたまま、劇が終わりに近づく頃、あの人が出て来た。
最後の舞台の用意のために閉じられた幕を背後に、道化師が一人立ち尽くしている。
彼はぎこちなく、ペコリ、とお辞儀をした。
へたくそな操り人形みたい、と少女は思う。
なにやら期待できなさそうな様子に、熱狂していた観客の盛り上がりは覚め、出て行こうとするものが現れる。すると司会が叫んだ。
「今までの拍手喝采、ありがとうございます。舞台はどうやら皆様のお気に召したようで、私も嬉しい限り!最後には、歌姫の謡がまだ残っておりますよ、これをお目当てにいらした方も大勢おりましょう、どうぞ席をお立ちなさいますな・・・。はい、どうどう。さてさて、落ち着かれたかな。これなるものは、まさしく、ピエロにございます。前座として、少しばかり皆様の暇を殺してくれましょうぞ。我らがホープ、どうぞ温かい目でごらんあれ」
視界の言葉が終わると、自然、目はピエロへと集まる。彼は一身に視線を浴びて、ぎくり、とした様子だったが、大きく息を吸って、吐くと、ピン、と背筋を伸ばして観客を見渡した。遠くからで彼女にはピエロの顔は見えなかったけれど、前方の席でかすかにざわめきが起こる。
「目の…色」
「オッドアイ…」
成程、瞳の色が左右で異なる。なんて、神秘的なんだろうと思った。
やがてそれも静かになると、道化師はパントマイムを始めた。
それの巧いこと!彼女は彼の前にまるで本当にガラスの壁があるのではないかと疑ったし、ステーキを食べるしぐさや、持ち物が空中で止まって動かなくなってしまうかのように振舞う様子もよくできていた。
しかしそれらはその前のショーに比べればたいしたことはないはずだったのだ。
それなのにじっと見つめているうちに不思議なことが起こった。
「あれ?」
「見える…」
「な、なんだ、これ?」
他の観客にも異常が生じていた。そう、パントマイムで彼が表していた様々な架空のものが目に「見える」。
少女もぎょっとした。階段が。カバンが。壁が。ペンが。まるでそこに当たり前の質感を持って見えているのだ。
何事かとざわめき始めた観客の様子に、司会者がにやりと笑むのが見えた。そっとこの奇怪を壊さぬよう、それでも末席の観客にも届くよう、彼は声を渡らせた。
「お分かりいただけましたかな?この男、稀代の幻術師にございますれば、あなた方の見ているのは、世にも珍しかな泡沫の幻。さらに美しき魅惑の夢を、これからご覧にいただける。終幕を飾る歌姫の紡ぐ謡に彼が現のように雅やかな絵を描きましょう…。さあ、お待ちかね、歌姫エアリアの登場です!!」
舞台を唖然と見つめていた観客の前に暗闇が訪れる。光の氾濫に慣らされていた誰もが驚いて瞬きをすると、暗闇の真ん中には忽然と真っ白な天使のようなたおやかな女性が浮かび上がっていた。
ふわり。彼女が微笑んだだけで、パニックを起こしかけていた誰もがうっとりとした。
なんて、綺麗な人。少女も例外ではなく見とれる。それはこの世のひとではないみたいだった。
Laalalala―――…
そして静寂を割って歌が始まる。
「創世歌だ…」
この世の始まりを伝える歌。
誰もが静かにその調べに聞き入って身を委ねる。
やがて、うっとりするような滑らかな声にあわせて彼女の姿の後ろの真っ黒な空間に、色彩が生じ始めた。
まず、闇を分かつようにして古の神々が現れた。彼らは住処をその手で作る。神の産んだ楽園とその中での彼らの平和。しかし悠久に続くと思われたそれを壊すようにふとしたことから生じる争い。血の海が広がる。黒と赤。何もかも壊され、荒廃し、再び暗闇に沈んだようになった世界。そこにぽつり、取り残されたように一人の子どもの神がいる。誰かの名前を必死に呼ぶのに、答えはいつまでたっても返らない。その幼子は涙を流す。流し続ける…すると、その落とした涙を受けて、大地から芽吹くものがあった。泣き続ける子どもを包むようにして、飲み込むようにして、それはやがて神を覆いつくして巨大な木となった。木は世界を暗闇に落していた雲を裂いて光を世界に取り戻す。その落す葉は大地を富ませ、落とす実からはさまざまな植物が溢れた。そうして世界に緑が木を中心にして広がっていく。時と共に、神の血で赤く染まった海は、川は、その青を取り戻し、それにしたがって、神の消え去った大地に動物が現れ始める。お祭り騒ぎのように、慌しく、色に溢れた、この世界へと続いていく。
不思議だった。創世の話は知っていたけれど、目の前に広がるのは、まるでその話を知っているものが早送りで記憶を見せているような錯覚を覚えさせる。それほどに情景は生き生きとしていた。
本当にこうして世界は生まれたのだ。そう、思った。
ややあって、ふっ、と歌が止むと、光が戻ってきた。
夢から覚めたように、そこにあるのは自分が確かにいたサーカスのオレンジのテントの中。観衆。舞台の上には、歌姫と、隅っこに居るピエロ。二人がそろってお辞儀をすると、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
誰もの目が輝いていた。本当にいい物を見た後の、あの、さめやらない興奮と感動が、身のうちで脈打っているようだった。少女もわけの分からぬ歓声を上げて、叫び、その手を打った。なんだかとっても走り出したいような気分だった。
舞台には今まで出て来た人たちが次々に登場して、みな頭を下げたり手を振ったりして観客に応えている。
「うおっほん!!ありがとうございます、ありがとうございます!!!!これにて、我らが公演を終わらせていただきたいと思います。それではまた皆様とお会いできる日を祈って、ぁあアディオスっ!!!」
ぴたりとそろった礼をすると幕が閉じていった。
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