それを見た途端、なんだかいやな予感がしたのでフィーが慌てて扉を閉じようとすると、その手を掴まれて中に引き入れられる。半ば本気で悲鳴を上げるフィーの名を慌てて呼ぶジャックの声が、男が扉をばたん、と閉めたことで遮られた。
恐慌したフィーががむしゃらにもがいてなんとか男の手を逃れ、扉を開けようとするとなぜか扉は開かなくなっていた。
「どうした、お客様?」
途端、音も気配もなく背中に寄ってきた存在にフィーはぎくりとする。振り返るのが怖くて、身をすくめる彼女のかぼちゃ頭に口付ける気配がした。
「怖がるな、悪いようにはしないから」
この声は、間違いない。フィーは諦めて振り向いた。向けた視線は予想通り、真っ青な色をした瞳とぶつかって彼女は溜息をつく。
「…王様、あんた何をやってるんだ。人の夢までやってきて人の邪魔をして」
「王様?夢?なんのことかな、しがない吸血鬼の眠りを妨げたのは貴女のほうだ、フィオナ」
「名をみだりに呼んでくれるな、しがない吸血鬼に知り合いはいない」
フィーはすぐ傍にいるヴィーの脇を潜り抜けるようにして、反対側に向かって駆け抜けようとする。
「そうか?俺は貴女を知っている、貴女は今俺を知った。これで十分だろう」
フィーの言葉に答えたヴィーは、あっさりと小さな彼女を捕らえ、長い腕の中に閉じ込めた。
「何が十分だ、近寄るな、離せ、私を帰せ!」
暴れようとしても、あっさりと抑えられてしまう。そう弱くないはずなのに、圧倒的な力の差にフィーは歯噛みした。夢ならせめて、勝ててもいいのに。そうでなくても、せめて同等の力を持てないのか。どうしてこうも、この夢は現実的なのだろう。悪夢だ。
「ふうん。そうつれないことをいうんだな。吸血鬼らしく血を吸うついでに、一ついいことを教えてやろうか、フィー」
抜けない、と思っていたかぼちゃの被り物が、あっさりとヴィーの手ではずされてフィーは唖然とする。彼女の頤を長い指が掴んで、首筋に唇が寄せられた。青年の吐息と共に、囁きが落ちる。
「夢というのはお前の知るように潜在意識を映す鏡となることもある」
青年の少し冷たい唇が、少女の薄い肌に触れる。
「では、俺のすることは俺の望むことか、それとも」
心の奥底でお前が望むことか
「…ィー、おい、フィーどうした?」
揺り起こされる。フィーが目を開くと、戦神を描いた凛々しい彫像のように美しい顔の中の夢よりも鮮やかな青の眼がこちらを覗き込んでいた。
「いやに魘されていたが、大丈夫か」
「ヴィー、か。いや、大丈夫だ、おはよう」
「おはよう、というかまだ夜だがな。朝は近いが」
見回そうとすると、首が痛んだ。なるほど、まだ暗い。木背を伸ばそうとして、木の粗い肌にぶつかってフィーは呻いた。
そうだ、野宿していて、木に凭れて座り込んだまま眠っていたのだとフィーは思い出す。通りで、悪い夢を見るはずだ。悪い夢を。気のせいか、頬が熱かった。フィーが空を見上げると、木々を透かして星空が見えた。こんなに気持ちのいい晩なのに、自分はどうしたというのだろうかと彼女は顔を顰める。
「近くに泉があったな。ちょっと顔洗ってくる」
「待て」
フィーが立ち上がろうとすると、ヴィーが彼女の手を掴み何かを言いかけた。しかし、フィーが振り向くと言葉を飲み込むようにしてヴィーは顔をそらした。
「なんだ?」
「…いや、いい。気をつけて行け」
「ああ」
いつになく少々挙動不審なヴィーの様子に首を傾げながらも彼女は歩き出す。よく晴れているせいか、朝が近いこともあるのか、空気は酷く冷えこんでいた。
泉にはすぐたどり着いた。氷が張っているが昨日氷を割ったところがまだそのままのようでフィーはほっとした。あれだけ冷たい水で顔を洗えば、熱も気持ちも醒めるだろう。
泉は夜空を映して澄んだ輝きを放っている。覗き込めば、やはり少々紅潮した自身の顔が映る。気に入らなくて、ばしゃばしゃと乱暴にフィーは顔を洗った。
夢は、自身の望みを映すんじゃない。あれは、あの女好きの王様の印象がそうさせただけだ、と心の中で彼女は唱える。
ようやく気持ちが醒めてきて、顔を洗うのをやめて見下ろすと、冷たい水のせいで先ほどより紅くなった自分の顔に出くわした。酷い顔だと苦笑して、ふと、フィーはあることに気付いた。
首筋に、紅い痕がある。
「この寒いのに、虫さされか?」
ロイに薬をもらおう、一人ごちると彼女は持ってきていた布で顔を拭って来た道を引き返した。
それから朝の一騒動が起ころうとは、この時の彼女は知らない。