なかなか扉の色としては珍しい気もする、涼やかな空色をした扉を開けた。
「これは・・・別世界、ですね」
ジャックの言うとおりだった。今までずっと歩いてきた暗がりとはまるで別世界だ。星明りに照らされて、そこに広がるのは花畑だった。貴族の好むような煌びやかな花でなく、野に咲く慎ましやかで優しげな花。この季節には、およそ似つかわしくない。
「確かに街中より暗いけれど、僕の連れのいそうな暗さじゃないな。好きそうではあるけど。まるで天国みたいですし」
ジャックはくんくんと辺りに漂う香りを嗅ぎながら呟いた。やがてふらふらとそれに誘われるようにジャックは歩いて中へと行ってしまう。
「いい香り。あ、ちょうちょがいる。この時期にモンキチョウなんて珍しい」
「おい、ジャック、ちょっと待って」
「少し休憩しましょうよ。いいでしょう?さあ、ほら自由行動です!」
「…私は構わないんだが」
お前の連れのことはいいのか、と首を傾げつつ、フィーも花畑へと足を踏み入れた。緩やかに丘になっているそこを、ジャックの後からゆっくりと花を踏まないようにフィーは登って行く。
どんどん先へ行ってしまったジャックは、丘の頂上で何かこちらに言っていたようだったが、よく聞こえなかった。次の瞬間、ジャックの姿は向こう側へと消えてしまう。
「ジャック?」
少し慌ててフィーは駆けた。そして彼女は小高い丘の頂上にたどり着く。
「一体、どこへ…」
ジャックはもうどこにもいなかった。フィーは途方に暮れて、辺りを見回す。花が咲いていることを除けば、王都のそばにある丘とそっくりなその頂上から見晴らす景色は、本当に美しかった。緩やかな風が吹いていて、花びらが時おりそれに呑まれていくつか舞い上がる。それはまるで、春のような。
「ロイが見たら、喜んだかな」
彼も花が好きだ。しかし、夢の中の幻想を持ち帰って彼に見せるのは叶わないとフィーは溜息をつく。独り占めするにはあまりに寂しくもったいない景色だった。
「参ったな。ジャック、どこへ行ったんだ。ジャーーック!!」
呼んでみても答えは返ってこない。フィーは肩を落とすと諦めた。振り返ると、扉はなくなっている。また、一人ぼっちだ。美しくとも、こんなに広い場所で、たった一人。
「君は、迷子?」
「うわ」
心細くなっていると、いきなり耳元で声が響いてフィーは飛び上がった。
「ごめん。驚かせてしまった。お詫びにこれを取ってあげる」
フィーの取れないと思っていたかぼちゃ頭がひょい、と白い手に取られる。振り向くと、見知った顔があった。
「あれ、フィー?」
「…ロイ、か?」
「ロイ?」
首をかしげている他に見ない美貌を湛えた青年は、どこかうっすら透けて見えた。真っ白な長衣を纏い、佇む姿は天上人か精霊と聞いてもフィーは驚かなかっただろう。だが、その銀の髪も、優しくこちらを見る空色の瞳もよく知る青年のものと違わない。
「まさか、ロイじゃないとか言うのか?」
「僕は一応、ここで彷徨っている幽霊ということになってはいるけどね、フィー」
「なっている、って。じゃあ、あんたは誰だ?何故私を知っている」
青年は寂しげに微笑んだ。フィーは美しい人間のこういった表情に弱い。自分で分かっているがどうしようもない。だから次に青年が何を言おうと頷いてしまうだろうとぼんやり感じた。
「分からないと話せない?もう少し君と話していたいんだけど」
「…構わないよ」
「よかった」
嬉しげに彼は微笑むとフィーの手を取った。その手が導くままに、花畑にフィーは腰を下ろす。並んで天井を見ると、作り物のような綺麗な空がよく見えた。夢とは本当に突拍子もないものだ。人探しをしていたかと思えば迷子になったり、知り合いらしい人物に出会ったり。
そういえば、昔もこんなことがあった。
「何を考えているの?」
青年が尋ねるのでフィーは静かに答えた。
「過去のことだよ。あんたとそっくりな人、ロイって言うんだけど、ロイと、こんなふうに並んで空を見上げたことがあったんだ。あの時も、そういえば迷子になった。ロイは探しに来てくれた。師匠も。当たり前みたいにそうしてくれて、心配かけたのが申し訳なかったけど、嬉しかった。なんだか懐かしくて」
「そう。僕も何か懐かしい。遠い昔も、こうしていたような気がして」
そう言って、青年は遠くを眺めた。風がフィーの短い髪と青年の流れる銀の髪を掬っていく。穏やかな夢だなとフィーは思った。それはきっと、共に居る相手がロイと限りなく近い雰囲気だからだろう。ロイは、心を乱さない。傍にいると落ち着くのだ。
そんなことをフィーがぼんやり考えていると、膝にどさり、と重みが乗った。
「な」
驚いて固まるフィーをよそに、青年は飄々と笑って見せた。彼女のその様が愉しいとでも言うように。
「実は、ここしばらくよく眠れなくて、君に膝枕でもしてもらったら眠れる気がするんだ。なんだか落ち着くから。どうか、このままで」
そう言って、彼はそのまま目を閉じた。
どことなく図々しいところもよく似ている。そう思って、フィーは苦笑した。これはどうせ夢だ。多少気恥ずかしくとも、少しくらいこの兄弟子そっくりな人を、こんなふうに休ませてやったっていいだろう。
「子守唄はいらないか?」
「…遠慮しておくよ」
断られてフィーは少し落ち込んだ。どうやらフィーが歌のあまり得意でないことを彼は知っているらしい。
野花の穏やかな香りに包まれて、やがてまどろんでいく人の様を見つめてどのくらい時間がたっただろう。
ぱちりとフィーは目を覚ました。なんだかよく眠った気がする。
「フィーってば。ああ、起きたみたいだね」
フィーはまだ眠い目をこすりながら、体の傍に寄りかかると、木より柔らかな感触がした。
「…フィー、叫ぶなら声を上げたらいいのに」
声がでなかった。
昨晩は野宿で、森の中で寝た。木に凭れて休んだはずだった。
しかし目覚めると、座ったまま、木ではなく半ばロイに抱きつくようにして寝ていたらしいということが分かった。
「おはよう」
「…おはよう。ごめん、ロイ、悪かった。寝苦しかったんじゃないのか」
「いや、ずっとこうしていたわけじゃないから平気。明け方に魘されてたみたいだから起こそうとしたらなんだかこの形で落ち着いちゃって」
「すまない。ロイ、目がちょっと赤いな。寝てないだろう…ああ、夢は逆だったのに」
「夢?逆って…ひょっとして魘されてたのは僕のせい?」
尋ねる声にフィーは首を振った。
「いや、途中からはそんな悪い夢じゃなかったんだ。ジャックに会って、花畑に着いて…」
ああ。その時フィーは納得した。穏やかな花の香りも、どうしてロイの夢を見たのかも。どうしてよく眠れたのかも、よく分かった。
「ロイの、ポプリか」
「え?」
「なんでもない。ありがとう、私はよく眠れた」
「よかった」
そう言って微笑む顔は、やはり夢よりも現実の方がいいな、とフィーは少し思った。
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