なんだか派手な橙色の扉を開けようとすると、ジャックがフィーの手を止めた。
「ジャック?」
「しぃ、静かに」
フィーが横を見ると、ジャックの黒い皮の手袋をした小さな手がかぼちゃの口の辺りに当てられている。
「なにか、声が聞こえませんか」
そうひそひそと言われてみて、フィーも耳をそばだててみた。確かに頑丈そうな扉の向こうから微かに声が漏れてくるような気がした。それは、愉快そうな団欒のさざめきのような。
「人がいるのか。こんなところで祭りを祝っているとしたら相当な変わり者のようだが」
というか、自分の夢の住人が変わっているということはつまり、自身こそが変わり者であるのではというような気もしてフィーは少し悲しくなったが、気を取り直してジャックに訊ねる。
「ジャックの連れの声はするか?」
ジャックは首を傾げて悩んで見せた。
「分からないですね、人が多すぎて…」
「そうか。ここにいても埒が明かないし、ノックでもしてみようか」
「でも…。この扉の中にいるのは人間とは限らないのでは?」
ジャックはやや不安そうな声でそう言った。フィーは笑ってみせる。
「暗いとはいえ仮にも神殿地下に屍鬼がいるわけがないだろう。まして魔などいるはずもない。何かいたなら逃げればいいし、最悪守ってやるさ」
そう言いながら、そもそもこれは他の誰でもない自分の夢なのだから大抵のことが起きてもどうにかできるだろうとフィーは思った。なにせ、これは夢だという自覚があるのだから。
「…守ってやる、ですか。連れとは逆だな」
「うん?」
「いえ。もちろん僕も危なくなったらがんばるけど、貴女は頼もしいなと思って」
じゃあもしもの時はお願いします、とそう言ったジャックはどこか楽しげにフィーと手を繋ぎ直した。
「では早速。…失礼」
とんとん、とフィーが扉をノックすると、「はあい」とのんびりした少女の声が応えた。
きい、と音を立てて扉が開かれると、そこには祭りではよくある花の妖精の格好をしたすらりとした体躯の少女の姿があった。さらさらと煌く金の髪に、鈍く輝く同色の目。どこかで見たような色の組み合わせだ。ただその肌は、フィーの知っているあの憎たらしい猫と違い雪のように白かった。淡い色の唇が、フィーを見て微笑みの形の弧を優雅に描く。
「まあ、フィーね。お待ちしておりましたわ。貴女からここにいらしてくださるなんて嬉しいこと。宴はようやく盛り上がってきたところなの。ちょうど良かった。さあ、お入りくださいませ」
思わず同性のフィーが見惚れるほどに蠱惑的に美しく微笑んだまま、少女はフィーの答えも待たず半ば強引に二人を室内に招きいれた。
扉の中はひどい騒ぎだった。ただ、フィーには相変わらずほとんど音が聞こえなかった。だがそれだけが夢である証といえるくらい、この夢の情景はやけに鮮明に目に映る。
暗めな室内の明かりとなっているのは、小さいものは普通の大きさだが大きいものは人間一人の高さほどもある大小ばらばらな白い蝋燭だ。その合間に食べ物を一杯に載せた食卓が置かれ、黒い仮装をした人や人ともつかぬ生き物が所狭しとそれを縫って動き回っている。随分天上が高いと思って見上げると、そこは岩の天上になっており蝙蝠がずらりと並び、どうやったものかそこから吊り下げられた空中ブランコが目に鮮やかな色合いの仮装した人間を乗せたまま延々と行ったり来たりしていた。お喋りや踊りや謳い、賭け事に興じているような一団もあれば、何故だか机上演習やら読書やらに夢中になっているらしい者たちもいた。酒瓶を手にぐったり寝転がっている紳士もいる。
よく見ると、それは宴というにはあまりにまとまりがなく、自由に過ぎた。戸惑うフィーに向かって、少女は言った。
「皆様ここではお好きなように振舞っていただいているのです。煩わしい俗世のことなど全て忘れて、各々の望むままに。あなたもそうしてくださったら嬉しいわ」
「…どのような理由か存じませんが、このような賑やかな場にお招きいただき光栄です。しかし宴を楽しむ暇は、残念ながら今の我々にはございません。実は祭りではぐれた連れを探している最中なのです」
目の前に広がる光景に少々くらくらしながらフィーがそう言うと、
「あらそれは大変。お連れさんの名前は?」
心配げに声を曇らせて少女が尋ねてきた。
そういえばジャックの連れの名を聞いてなかったな、と少年の方を見ると、ジャックは黙り込んで答える気がなさそうだった。心持ち、自身を掴むその手力が強めであることにフィーは気付く。
「ジャック、どうした」
「…ここはなんだか良くない。フィー、もう戻りましょう。僕の連れはここにはいない」
まるで彼女にだけしか聞こえないようにするごとく小さく囁かれたその声音は、なぜかあまりに真剣で、フィーはただ頷いた。
「わかった」
「ええ」
フィーは少女に向き直る。
「失礼、どうやらここには探している人物はいないようです。いきなり伺った身でお邪魔して早々お暇するのは申し訳ないのですが、」
「お帰りになるとおっしゃるの?そんな、私ずうっと今まで貴女のご来訪をお待ちしておりましたのに?」
「ええ、申し訳ありませんが」
「…あら残念。と、申し上げたいところですけれど」
少女の笑みが深まる。
「もう出口はありませんわ」
「なに?」
振り向くと、入ってきた扉は消えていた。
「もう出る事は叶わない。他でもない貴女自身がここにいらっしゃるのをお選びになった。そうでしょう、この夢の主フィオナ?」
「…一体、どういうことだ」
「知らなくてもいいわよ、どうせ死ぬんだから」
フィーが顔を顰めて、「夢?」と呟いているジャックを背にしながら少女に尋ねた。見詰め合っていると、少女の目がすう、と細まる。その手がふと持ち上がって、何かをひゅ、と飛ばすのを見てとっさにフィーはジャックを庇った。
しかし、べちゃ、という音に思わずつぶっていた目を開けると、フィーに当たったそれはどうやらかぼちゃパイだった。なんだかいやな感触がする。ジャックが慌てたようにフィーの顔をハンカチで拭ってくれた。
「なあんて、ね。驚いたかしら、冗談よ」
「冗談?悪趣味だな…貴女は何者だ」
なんだかこちらを睨みつけていた少女が面倒そうにフィーから顔をそらすと、すっ、と張り詰めていた空気がほどけていく。ジャックの力が抜けているのに気付き、フィーもどこかほっとした。多分、もう大丈夫なのだろう。
まるで誰もこちらに気づきもしないとでもいうように、宴は続いている。ああ馬鹿馬鹿しい、とそれを眺めながら目前の少女は呟いた。
「あなたを魅了してもやっぱり面白くないわ。されてくれないし、やっぱり彼じゃないとつまらない。
わたくしはハーレ、夢魔の一人よ。さっきからずっとあなたを魅了しているんだけど、貴女、さすがはあの人の『飼い主』だけあるわ。こちらに靡かない生意気極まりないところなんて本当にそっくり。それとも疲れるんだけど男の姿をとったらよかったかしら?こんな風に」
ふ、とその姿が揺らいだかと思うと、ハーレのいた場所に少女と同じ色をまとう澄んだ目の美しい男が一人立っていたが、呆気に取られるだけのフィーの様子にはあ、と一つ溜息をついてその姿は元の少女の姿に落ち着いた。少女の言葉から一匹の猫を思い出して、フィーは訊ねる。
「貴女が言う彼とは、ラエルのことか」
「ああ、今はラエルと言うのかしら?あの金色をした力ばかり強い生意気な男。ならば、そう、その通りよ。
もし今宵、貴女がここまで来もしなければ、夢にもわたくしに何の違和感も覚えないような凡愚なら早々目の覚めることのない永遠の夢を見ていただこうと思っていたの。たった一人で、彷徨い続ける孤独な夢を。でも、あの彼のいやらしい手筈でここまで貴女は辿り着いた。
せっかくようやくのことで隙をつけたと思ったのに、貴女ときたらやっぱり守護は堅いわ、思ってもみない邪魔者はでてくるわで、もうたくさん。疲れちゃった。こんなのやめよ、やめ。馬鹿馬鹿しい」
そこまで言うと、彼女はぐるりとジャックの方を向いた。
「まさかご本人じゃなくてかぼちゃが来るとは思わなかったわ。かぼちゃといえど、今回は巻き込まれて災難だったわね」
なんだかよく分からないが、このハーレと名乗る少女が自分を棚に上げてジャックを哀れんでいるのはフィーにも分かった。しかし別にジャックは怒るでもなく、フィーの視線を受けてその重そうな光るかぼちゃ頭を傾げて見せた。
「…僕は、別に、楽しかったですよ。それにむしろある意味で、今夜の全てが説明されてすっきりした気持ちです。これはフィー、貴女の夢で、」
ちらり、とジャックはフィーを見ると今度はハーレのほうを向いて言葉を続けた。
「彼女がその中に入り込んで貴女を夢に捉えようとしたから、彼が、ラエルが僕を助けとして寄越した。その為に僕は連れと引き離された。こういうことでしょう?」
その時、近づいてきたハーレはジャックの頭に手を置いて、何かを確かめるようにぽんぽんとそれを叩いていた。ジャックのかぼちゃ頭がその度に重たげに揺れ、彼がじたばたもがくのを見てフィーは慌てて止めたがハーレは不満そうな顔をした。
「いいじゃないの、貴女の物じゃないんだし」
「そういうことじゃない、苦しそうだろう!?」
「なによ、道具にそこまで入れ込まなくても」
「道具?何を訳のわからないことを。ジャックはジャックだ」
それを聞いて、ふうん、とハーレはその金の目を光らせて笑った。ジャックは黙っていて、フィーは一人ハーレを睨んだ。それに構わず、しげしげとハーレはジャックを見続けた。
「そう。フィーにはそう見える。そう聞こえる。かぼちゃ、あなたはジャックと言うのね」
そう呟いてしばらくした後、少女は金の髪を揺らしてフィーの方を見た。
「私には分からないけれど、貴女には何か人を惹くものがあるのでしょう。愚かな王様やら、哀れな青年やら、生意気な彼にさらにはこのかぼちゃを惹くような何かが。それはあなたの才や力かもしれない、人柄かもしれない。容姿かもわからない。でも羨ましくはないのよ、むしろ同情するわ。哀れみも共感も抱くのよ。
貴女はだって何も分かっていない。子どもは無邪気だから残酷だわ、でもだから気がつかないうちはただ幸福でいられる。私もできるのならずっと子どもでいたい。心はそのほうが自由なのではないかと思えるから。だから飽きるまでは気ままに生きていくつもり。幸いにも時間はいくらでもあるし。俗世のことなど忘れて、いつまでも遊び続けるのよ。好きなことをするの。お祭り騒ぎなんて大好きだわ。…人は不便ね、年をとる、だからいずれは気がつかなくてはならない、いくつかの煩わしい現実に」
そう一息に、ひとり言のように言った後、少女は笑った。フィーのかぼちゃ頭にもぽん、とその白く小さな手を置く。
「私はもう帰るわ。貴女たちは、もうしばらく遊んでいきなさいな。貴女は、今はまだ子どもなのだから。ここには何でもあるし、私ももう何もしないわ。彼を怒らせたくないから。本当はちょっと彼の新しい『主』をからかって、その後その顔を見るだけのつもりだったし。そう、ジャックあなたも遊んでいきなさいよ。フィーと心行くまで遊べばいい。探し人なら隣の部屋にいるし、そうと分かったら急ぐことはないでしょうよ。どうせ夢は、一晩経てば覚めてしまうような儚いものなのだから」
そう言って、ハーレの指差す先には、今までなかった扉が壁にできていた。フィーは、去ろうとする彼女に一つだけ聞いた。
「…貴女は、ラエルが好きなのか」
私に何かして会おうとするくらいに、とフィーが言うと、するするとどこからか降りてきた綱を手繰っていたハーレはフィーを見た。一瞬、そこに燃えるような情熱を見た気がして、フィーはどきりとした。
「ええ。彼のことを想うだけで幸福になれるくらいに。この髪の色も瞳の色も、彼を想った日からずっとこの色のまま。これは私が彼のものという証。でも彼の目はいつも人間を見ている。そして人と精霊の世界の中、彼はどこにだって行けるから、弱い私から会いに行くことすらなかなか叶わない。今なんて特にそう。本当は私以外を映さないように全ての人間を殺してしまうか、彼の目を抉ってしまったらいいって思わなくもないけれど、そうしたら彼の目は私を映して笑ってくれなくなる。そんな残酷なことってないから我慢してるの、偉いでしょう。だからちょっと彼を怒らして、会いに来てもらうくらいは許されるかしらって思うのよ」
じゃあもうお会いしないことを願って、と一言言って彼女はするする天井に向かって登っていく。その姿は途中で煙が消えてしまうように薄らいで見えなくなった。
「…フィー」
「ん、なんだ、ジャック」
今は子ども姿のフィーの黒いワンピースを引っ張るジャックをフィーは振り返る。
「あれ」、とジャックが指差す方を見ると、部屋の中はいつの間にやら子ども達だけが集まって騒ぎまわる遊び場へと姿を転じていた。まるでたくさんのおもちゃ箱をひっくり返したように色とりどりの遊び道具が転がっている。ハーレの趣向か、相変わらず仮装したり仮面をしていたりとその場は少し奇妙な雰囲気ではあったが、先ほどの享楽ぶりよりは幾分可愛らしかった。かぼちゃ頭のふたりはしばらく互いに見詰め合っていたが、どちらともなく頷きあうと、手を取って走って遊び場に向かった。
目が覚めると、フィーは体のあちこちが痛くて呻いた。その声に目覚めてか、ロイやヴィーがあくびをしながらこちらに朝の挨拶をする。
なんだか久し振りによく遊んだ気がして、フィーはなんとなく気分が良かった。