闇に溶け込むように黒く、薄そうな扉の前に2人は立った。

「なんだかこのあたり、やけに寒いですね」
「薄ら寒いな」

手をつないだままフィーとジャックは身を震わせる。ただでさえ真っ暗な闇の中、黒い扉は薄くとも存在感があった。辺りはやけに静かだ。扉の向こうには、いかにも何かありそうだった。

「行くか」

深呼吸してフィーはドアノブに手をかける。
ほとんど音を立てず、扉は開いた。ジャックの光るかぼちゃ頭に照らされたそこは一見、何もなければ誰もいない普通の部屋だった。明かりがついていない、薄暗い部屋ということを除き、さほど広くもない普通の部屋。だが、ジャックは何かを見つけたように飛び上がると、部屋の隅へと一気に駆けた。

「ジャック?」
「ウィル、こんなところにいたんですか」
ジャックの言葉にフィーは驚いた。
「どうした?ウィルって…そうか、お前の連れか」

どうやらここに、彼の連れが居たらしい。今になってフィーはジャックの連れの名を初めて聞いたことに気がつき苦笑する。しかし、ジャックの話しかけている方向を見て唖然とした。そこは、何もない空間だったからだ。人影などまったくもって見当たらない。

「すごく心配しました。僕を騙すの、何回目になると思ってるんですか?いい加減にしてくださいよ、もう。そんなだから迷子になってばっかりなんですよ、あなたは」

ジャックはそんなフィーの様子に気付かず、涙を拭う仕草をしながらフィーには見えない相手へと訴えている。ジャック、とフィーが思わず声をかけようとしたとき、男にしては高めで、人を思わず引き込むような穏やかな響きの声がしてフィーはびくりとした。誰か、第三者がそこに、確かにいるのだ。

「何を言うんだい、ジャック。この間僕が沼地に旅人を誘い込もうとしたことについてちっとも僕は反省してないって言って、君が僕を責めるからこうなったんだろう。じゃあしばらく暗闇に戻って懺悔してくるよ、って僕が言ったら君だって『ああ、是非そうすべきだ』って言ったじゃない」

その声はジャックを責めているというよりどこか楽しげだった。ジャックはというと怒って顔を上げた。

「あなたはまるで反省なんかしてない振りをして、僕がそう言うように僕を誘導したでしょう。あなたが僕を手放せるように。最近はこんなことしなかったのにどうしたって言うんです。そんなふうに自分を苦しめて何になる。こんな暗闇、大っ嫌いなくせに隠れまでして」

ジャックは、連れとは離れられないだけだといったけれど、その口調は本当に大事な仲間か友人に向けられたように切実だとフィーは感じた。しかし、それに答える調子は優しげだがあくまで軽い。

「こうしている間は、僕の被害者が減る、かな」
その言葉に、ジャックは溜息をついたようだった。
「元から何もしなければいいんですよ」
「それは無理な話だね。気付けばこの舌は好きに喋ってるんだよ、みなを不幸に引きずり込もうとする。それが我が愉悦とよく舌の野郎は知っているんだ。とても意のままになりやしない。僕は頭で考えて体を動かしてるつもりけど、舌だけは舌のほうで勝手に考えてる。まるで別人なんだよ。これは生まれつきだ、もうしょうがないものなのさ。
…さてさて、それより君は僕のこと心配したって言うけど、今夜は随分楽しく過ごしたんじゃないかい?ならば良いじゃないか、僕は少々反省できた、君は楽しく過ごせた。一石二鳥、いやあ、素晴らしい」
「そんなこと、」
「ないって言ったら失礼になるよね、そちらの愛らしい…うん、斬新なかぼちゃのお姫さま。君もそう思うだろ、ええと、」

こちらに水を向けられて、フィーは戸惑った。相手が見えないと目を見て話すことも叶わない。
「フィー、でいい。私自身はジャックと一緒にいられて楽しかった。だがジャックがどう思ったかはジャックの自由だ」
フィーの言葉に、見えない相手は笑ったようだった。

「はは、恥ずかしがりやなだけでジャックも勿論そう思ってるとも、ねえジャック」
「そんなこと、当たり前ですっていうところをあなたが遮ったんですよ、ウィル。すみません、フィー」

頭を下げるジャックに、構わない、とフィーは首を振った。
それにしても自分のかぼちゃ頭と比べてジャックの頭は実に可愛らしい。神殿に行く途中の通りの道の窓に映った自分の頭に我ながらぎょっとさせられたものだ。確かに小さい頃自身が作ったものと瓜二つだった。許されるならジャックのものと交換したいくらいだ。
そんなことをフィーが考えていると、再び目には見えない男の声がした。

「やあ、はじめまして、フィー。驚かせてごめんよ、僕はウィルっていうんだ。君が見えなくてもここに居ます。そうそう、これから夜に漂う人魂やら鬼火やらに会ったらそれはきっと僕だと思ってついて来てくれると嬉しいな」
「僕も居ますけど」
「じゃあ僕とジャックで。やったね、かなりお得だよ、それは」
「沼地に落ちたらとてもそうは言ってられませんよ。ウィル、」
「まあ、それはさておき」

仕切りなおすようにウィルはジャックを遮った。ジャックは素直に静かになった。

「ふうむ。君が迷子のジャックの為に、いや失礼、僕のために、僕を探し出してくれたのはとても嬉しい。しかしここ以外にも行き先があったと思うんだが、ここに来てしまったのか。ううん」
「いけなかったのか」
「いやいや。ありがとう、心から感謝してるんだ。ただね、僕はついつい君を悪い方に連れて行きたくなるんだ、正しい方じゃなくってね。ああ困ったな」

どうやら2人は魔の類らしいと知って初めは驚いたが、ラエルという魔を知っていることもあり、フィーは比較的あっさり彼らを受け入れた。それより、とても困っているようには聞こえない声であれ、なにやら煩悶する様子のウィルに、彼女はどうしたものかと考えていたが特に問題のないことに気がついた。

「いや、私は特に困っても迷ってもいない。あなたに案内を請う必要もない。無事ジャックは連れて来れたようだし、好きに出て行くだけだが」
「本当に?ねえ、君は、ここがどこか、分かっている?正直に答えてみて」
「…私の夢の中、だろう。王都の、神殿の地下に、ありえない部屋がある夢だ」

フィーが答えると正解正解、とウィルは笑い声をあげた。ジャックは「ここはフィーの夢の中、なのかあ。そうですか」となにやら呟いて頷いている。ウィルは再び話し出した。

「自覚があるのは素晴らしい。勿論、だからジャックにも会えたのだろうけれど。でもね、今、君は自覚しようとしまいと、夢に閉じ込められてしまっている。ここから家に帰っても、どこへ行っても、そこが夢の中である限り何も解決しない。君の夢は君の支配下になく、少々悪意ある侵入者の支配下にある。君が目覚めるも目覚めないも、下手すれば永眠するもしないも誰かの掌の上ってわけ」
「ほう。では、侵入者とは、いったい誰だ」
「君は、それが僕かもしれない、とは考えないのか」
「あんたはジャックの友達だから」
「なるほどね」

ジャックは静かに、ウィルがいるらしい方とフィーのいる方の間に立って二人を眺めている。今は少し嬉しげな様子にフィーには見えた。彼女は言葉を続ける。

「さらに言えば、なにかあんたが悪いことをしようとするなら、ジャックが止めるだろうから」
それに重々しく「その通り」とジャックが応えて頷いた。
「これは参ったな。そうか、君はジャックの声が聞こえるわけだ」

では悪いことはできない、となにやら満足げなウィルの声がした。

「フィー。僕は君を直接は目覚めさせられない。僕のところまで連れてきてくれた、ジャックというこの優しい唯一の灯火をもう手放す気にもさっぱりなれない。今はとある事情のせいで、ここから動くことも残念ながらできない。と、まあこんな情けない僕だけど、君にできることがあるかもしれない。さあ、手を出して。目を瞑って」

ジャックが二人の間を退く。フィーは、この目に見えない相手のどこに向かって手を伸ばしたものか迷いながらも、万一ぶつかったりしないようにそっと手を差し出すと、目を瞑る。ウィルの声だけが響いた。

「暗闇に居続けるよう運命付けられてしまうくらい性根の捻じ曲がったこの僕にも、憐れんで灯火を与えてくれる手があった。そしてそれは特別に清らかな存在では別になかったんだ。ならばこの僕も、誰かにその灯火を与えようと思えばできるはず。ジャックと一緒ならそれができる。もう一度僕とジャックを会わせてくれてありがとう。ジャックを信じて、そのために僕を信じてくれた君に灯火を」

その瞬間、冷たいような、温かいような、不思議ななにかが指先に触れた。

「後は君次第だ、さようならフィー」
「…ありがとう、フィー。さよなら」

2つの声と共に、ふ、と笑った気配がした。フィーが目を開くと、そこにはもう元からなかったウィルの姿は勿論、ジャックの姿も見えなかった。急にフィーは心細く感じて寂しくなった。けれどジャックという明かりのなくなったはずの部屋の中でそれが分かった、ということは。

フィーは手元を見下ろして、光源を見つける。
とても小さな、けれど確かに温かな明るい光を放つかぼちゃのランタンが彼女の指先に置かれていた。不思議だった。夢で済ませるには勿体無い優しい温もりを感じる。

彼女は微笑み、それを掌に乗せると、立ち上がった。

「さよなら…ありがとう」

再び黒い扉を開け、外に出ると他の扉はなくなっていた。そこは知っている神殿地下の道ではなく、ただ四方に暗闇が広がっている。けれど、目の前を、足元を照らす光をフィーは持っていたから、思うままに照らして進んだ。たとえ彼女の夢を誰かが支配していても、道を選んだ先を歩くのは支配者の足でなく自分の足だ。そして進んだ先で出会ったことへの想いも彼女のものだ。そして掌にはそんな彼女の道を照らす光がある。

だから暗闇も怖くはない。

何もない、他に誰もいない闇の中を、歩いて、ずっと歩いて、どのくらい歩いただろうか。目に、眩しい光を感じた気がして、フィーは目を細める……。





「…朝だ」
森の木々を縫って、昇り始めた太陽から注がれる真っ白な力強い光が大地まで届き、夜の幽かな名残すら駆逐していく。夜は終わった。なんだか長い、夢を見ていた気がしたけれど、それがどんなものだったのか、その記憶は急速に薄れ、尻尾すらつかめないほどどこか遠くへと流れていってしまった。
フィーは目を開き、全身で夜明けを感じた。小鳥の軽やかな囀り、冷たく清清しい空気、そして溢れる光。

朝だ。フィーは、なんだか何かやり遂げたような気分がして心地よかった。

なんとなく彼女は手のひらを見た。そこが、握り締めていたわけでもないのになぜか温かかったから。
けれど、そこには何もない。

「フィー!」
「ああ」

彼女を呼ぶ声がする。それに応えながら、彼女は立ち上がる。
旅の途中で、また闇と対峙することもあるだろう。暗闇を進まなければならないこともあるだろう。けれど不思議と、大丈夫だと思えた。きっとなんとかなる。
もし、その時手元を照らすものがないとしても、大丈夫だ。

光の中立つ2人の姿が見える。フィーは微笑む。夢から覚めた現実で、彼女は今一人ではない。

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